「巨星落つという思いだ」。中曽根康弘元首相の死去を受け、山崎拓・元自民党副総裁が福岡市内で西日本新聞の取材に応じた。山崎氏にとって中曽根氏は、福岡県議から国政に打って出る際、後押ししてくれた「政治の師」。中曽根内閣で官房副長官として仕えた日々などを振り返った。
山崎氏の記憶に深く刻まれているのは、1986年の衆参同日選。首相在任4年目に入っていた中曽根氏は、前回総選挙で失った党勢を回復しようと野党の不意を突くダブル選をもくろんでいた。
中曽根氏から「必ず党を説き伏せろ」と密命を受けた山崎氏。反対する自民の金丸信幹事長と水面下で何度も調整を重ね、ついに説得に成功。そして「死んだふり解散」が決行される。史上2度目の衆参同日選は自民の圧勝に終わった。
外交や国鉄民営化など政策面の実績で語られることの多かった中曽根氏だが、山崎氏は「政局観も優れていた。非常に策略家だった」と話す。
旧社会党の村山富市氏が首相となった94年の自社さ政権樹立を巡っては、対立もした。山崎氏を含め自民内では首相指名で村山氏を推す動きが強まる中、「社会党の党首を総理にするのは禁じ手だ。拓、兵を引け」と諭されたが、「もう退路を断っています」と譲らなかった。後日、山崎氏の謝罪を中曽根氏は黙って受け入れたという。
山崎氏は98年、岐路に立つ。旧中曽根派の後継となる旧渡辺派領袖(りょうしゅう)の渡辺美智雄氏の死去後、山崎氏は自ら派閥を立ち上げ独立。中曽根氏に「中曽根派として派閥を再建しないか」と打診されたが、次代の党の旗印となる道を求めた。
中曽根氏は政界引退後も晩年まで改憲を唱えた。山崎氏は、若い頃の自分の選挙応援に駆け付けた中曽根氏の演説が忘れられない。福岡市の街頭で、中曽根氏は聴衆に「東京の空を米軍に守られているのは情けないことだ」と訴えた。「自分の国を自分で守るには、憲法改正と自国軍創設が必要」との強い思いを中曽根氏から感じたという。
だが、中曽根氏は首相時代、改憲に慎重な世論を背景に持論を封印。国会質問で「集団的自衛権の採用と憲法改正は考えていない」と明言した。「国民世論を踏まえることに心を砕く方だった」。現政権の政治手法に批判的な立場の山崎氏は、懐かしむようにそう語った。 (大坪拓也)
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